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気づきを通して、葛藤の原因の終焉があり得ます。 思考や行為の、どんな習慣にも気づいていることです。 そのとき、理解を妨げている、 現実・事実を正当化したり非難したり分析したりする心の過程に気づくでしょう。 気づきを通して、 一頁一頁、習慣という本を読むことを通して、 自己認識が生じます。 解放するのは真実であり、自由でありたいというあなたの意志や努力ではありません。 気づきが私たちの問題の解決です。 私たちはそれを実験し、その真実を見出さなければなりません。 実際の実験と、自己を知ることによって生じる理解が確信をもたらすのです。 この確信を信念と呼んでも構いません。 それは愚かな人々の信念―何かを信じること―ではなく、 自己を知ることによってのみ生じる、自己同一化なしの理解です。 信仰することは宗教的であることではありません。 心によって作り出された何かを信じることは、 真実・実在であるものに対して開放的であることではありません。 確信は生まれ出るのです。 それは、信念、理論、記憶を引き連れた了解によってではなくて。 自己認識を伴なう観察から生じます。 気づきを実体験していくことのなかに、 それを理解していくことのなかに、 解放していく真実があります。 受動的な気づきによるこの自己認識は、瞬間から瞬間へであり、そこに蓄積はありません。 そこには終わりというものがなく、真に創造的です。 気づきによって、真実に対する感じやすさが生じます。 真実・実在であるものに対し開放的で感じやすくある為には、 思考は蓄積的であることを止めなくてはなりません。 それは「思考・感情が無貪欲にならねばならない」ということではありません。 それでは尚、否定的な形をとった貪欲の延長でしかありません。 そうではなく、貪欲を理解しなくてはなりません。 その理解が貪欲を終わらせるでしょう。 貪欲な心は、その自己成長と達成のなかで、常に恐れており、妬みを抱いています。 そのような心は、その欲望の対象を絶えず変え、 そして、この対象の変化を、我々は成長と呼んでいます。 真実・実在・神を求めるために世間を捨てる心は、なお貪欲な心です。 貪欲は、常に休むことなく働き、達成・成長を求めています。 そして、この休むことのない活動は自己拡張的な知性を作り出しますが、 それによって真実・実在であるものを理解することはできないのです。 気づいていると云うことは、ただ観察すること― いかなるものをも視野の外に置きざりにすることなしに、 いかなるものとも自己同一化することなしに、 ひたすらに観察することなのです。 そのような心には、心理的な蓄積によって形成される、あの固い芯がありません。 経験を求める心は鈍重です、素速い動きが取れません。 しかし、経験を求めて絶えずうろつきまわる「中心」を理解するとき、 気づきは、自然に、おのずから生じます。 それ自身の実際に活動するさまを理解してゆくなかで、 心は「無選択の気づき」という、この状態に思いもかけず、ふと出会うのです。 そのとき心には完全な沈黙の可能性が生じます。 より進んだ経験を求めていない心のこの並外れた静けさなしに、 私たちの活動のすべては、単に蓄積物の死んだ中心を強めるに過ぎないでしょう。 心が完全に静かであるときのみ、心はそれ自身の動きを知ることができます。 そのとき、その動きは広大で測り知れません。 そのとき、あなたは時間を超えた“あのもの”の感覚を持つことでしょう。 そして生はまったく違った意義を持ちます。 才能や能力や知的な訓練を通じては知ることのできない意義をです。 しかし、まず第一に重要であるのは自分自身を理解することです。 自己を知ることが英知の始まりです。 が、しかし私たちは、自分自身についてそれほどにも知らない。 確かに、ひとが自分自身を、自分の存在の全体を知ることがないなら、 そのとき探求には意味がありません。 そのとき探求は矛盾―ひとつの欲望に対するもう一つの欲望になります。 しかし、私たちが根気よく、懸命に、 自分と云う存在の全体の働きを観察することによって自身を理解することができるなら、 そのとき、心が非常に明晰で自由になるということを知るでしょう。 そのような心だけが永遠のものを調べ、見出すことができます。 そのとき多分、探求はまったくないのでしょう。 なぜなら、そのとき、心自体が永遠のものだからです。 もし、ひとが気づきの包含する意味を理解することができるなら、 体が高度に鋭敏になるだけでなく、存在の全体が活性化されます。 そこには新しいエネルギーがあります。 それをやってみられたなら分かるでしょう。 土手に座って、川の流れについて思索していてはなりません。 この気づきの流れに飛び込み、それについて行くのです。 そうすれば、どれほどひどく自分の思考・感情・観念が限定されているのかが分かるでしょう。 あなたは、あなたという存在の全体の過程を知らなければなりません。 すなわち、あなたがそうであるあらゆるものに、 思考、感情、欲求、行為に、気づいていなければなりません。 今あるままのあなたに気づいていること、 それが自己を知ることのまさに始まりなのです。 あなたにできることは、ただ「見る」ことだけです。 あなたは見るか見ないかのどちらかです。 「見ること」は、 どのようにして思考が反対物を作り出すのかを理解していくことを意味します。 思考が作り出すものは実在するものではありません。 「見ること」は、思考、記憶、観念、葛藤の性質を理解していくことを意味します。 幾つもの羽根を持った扇風機のように、機械が非常に早く回転しているとき、 分離した部分は見ることができず、一つの固まりのように見えます。 それと同じように、自己・私は統合した存在物であるように見えます。 しかし、その活動が速度を緩めることができたなら、 そのとき、それは統合された存在物ではなく、 多くの断片―分裂し、互いに争っている欲望と追求とで構成された多くの断片― であることに気づくでしょう。 これら分裂した希望と欲望、恐怖と喜びが自己を構成しているのです。 その自己を理解するためには、 多数の外観を取る切望の働きに気づいていなければなりません。 受動的な気づき、無選択的な見る力が自己のやり方をあらわにし 束縛からの自由をもたらします。 このように心が静かであり、それ自身の活動とおしゃべりがないとき、 至高の英知があります。 そのとき私たちの問題は、 「どうやって、この蓄積された体験=記憶から思考を解放することができるのだろうか」ということです。 どうやって、この自己は存在しなくなることができるでしょうか。 知性の活動が止むときにのみ、深く、そして本当の体験が起こり得ます。 その真実の体験がないかぎり、私たちの問題の本質的な解決はないでしょう、葛藤の終わりはないでしょう。 真実を見出すまで、悲しみと問題から外へ出る道はないでしょう。 解決は、気づきの静謐のなかで、受動性という開放状態のなかで、 真実を直接体験するとき、あります。 意識―それは知覚、感覚、接触、欲望、同一化を通して生まれ出る。 このすべては記憶の過程を通じて「私」という継続性を与えられる。 質問:あなたは心は静かでなければならないと言います。 しかし、それは夜も昼もいつも忙しい。 どうやって私はそれを変えることができるでしょうか。 クリシュナムルティ:私たちは、みずからの心が昼も夜も忙しいということに 実際に気づいているでしょうか。 あなたは、あなたの心が絶えず活動的であることに気づいていますか。 それとも、それは単に誰かに聞いた話に過ぎないのでしょうか。 そして更に言えば、たとえあなたがそれを自分自身で直接に知っているとしても、 なぜそれを変えたいと願うのでしょうか。 それは誰かが「あなたは静かな心を持たなければならない」と言ったからでしょうか。 あなたが、より多くの何かを達成するため、他のどこかに到達するため、静かな心を望むなら、 その静かな心の獲得は、ただ単にもう一つの形の自己中心性の現れであるに過ぎないのです。 それでは、ひとは、どんな動機づけもなしに、 静かな心の絶対的必要性に気づくことができるでしょうか。 もしそうなら、そのとき問題はこうです― 思考は終ることができるでしょうか。 私たちは、日中、目覚めている間、表面的なものごとでいっぱいです。 仕事、家族、日課、娯楽― そして夜には眠っているなかで、それは夢のなかでもまた忙しい。 思考の過程が絶え間なく続いています。 さて、思考は強いられてではなしに、 自発的に、自然に、終ることができるでしょうか。 なぜなら、そのときのみ心は完全に静かであり得るからです。 静かにされた、静かであるよう強いられ、躾られた心は、静かな心ではありません。 それは死んだ心です。 絶え間なく活動的な思考が終ることができるでしょうか。 そして思考が本当に終るなら、これは心にとって完全な死ではないでしょうか。 それゆえ私たちは、思考が終ることを恐れているのではないでしょうか。 もしも思考が終るなら何が起こるでしょう。 重要である「私自身」―私の知識、経験、人間性といった、 私が築き上げてきた構造の全体が止むでしょう、明らかに。 私たちは本当に静かな心を持ちたいのでしょうか。 私たちが本当にそうしたいなら、そのとき思考の過程全体を調べることが必要となります。 私たちは思考とは何なのかを見出さなければなりません。 もし、それが記憶の反応であるに過ぎないなら、 そのとき心は記憶すべてを片付けることができるでしょうか。 すなわち、思考は心地よい記憶を持ち続け、不愉快な記憶を捨てる努力をするのを 止めることができるでしょうか。 この全ては、とても複雑で難しいことのように見えるかもしれません。 しかし、あなたがそれを突っ込んで調べるなら、それはそうではありません。 本当に静かである心の状態は並外れた何かです。 それは否定の静かさではありません。 その反対に、静かな心は非常に強烈な心です。 しかし、そのような心が生じるためには、思考の過程全体の調査が必要です。 思考とは記憶の反応です。 私たちの教育のすべて、私たちの躾のすべては、 この「私」という記憶の継続を奨励しています。 そして、その土俵の上で私たちは思考のボールを転がすのです。 あなたが、「思考者」の構造全体を理解しないかぎり、 本当に静かな心、完全に静かである心を持つことはできません。 記憶に基づいたどんな思考もないとき、思考者があるでしょうか。 それを見出すためには、あなたはあなたの思考を追跡し、 あなたが持つあらゆる思考を調べ尽くさなければなりません。 そのことについて単に考察したり、おしゃべりしたりしてるのではなく、 非常に粘り強く、ゆっくりと、ためらいがちに、 どんな思考も非難したり取り入れたりすることなしに、 実際に調べ尽くさなくてはならないのです。 現在のところ、思考者と思考との間には分離があります。 そして葛藤を引き起こしているのはこの分離なのです。 多分、内面的に、私たちは沸き立っているのです。 欲望と拒絶の、野心、嫉妬、怒り、暴力の、絶え間ない混乱のなかにいるのです。 そして本当に静かな心、穏やかな心を持つためには、 そのすべてを理解しなければなりません。 悲しみからの全き解放を望むなら、 あなたは「私」と呼ばれるこの記憶の束を突っ込んで調べなければなりません。 この欲望の複合体―そこから苦悩のすべてが生じるのですが。 たとえば、私が嫌悪という反応を持ったとします。 その反応を見つめます。 更に、その感情が展開していって、私の条件づけや背景を明るみに出していきます。 私は注意深くそれらを見つめていきます― 目覚めた心で、どこまでも観察し続け、 次々と様々なことがらが展開していくのを見ていきます。 あなたは思考や感情によってエネルギーを浪費しているので、 観察するのに十分なエネルギーを持っていないのです。 ただ花を注意深く見てごらんなさい。 私たちは常に諸々の雑音の網目越しに見ます。 ひとが花を沈黙のなかから、 思考、その他の雑音なしに、注意深く見ることができるなら、 その同じ注意力を使って、自分自身の内面的な問題のすべてをも見ることができるのです。 あなたの脳が―それは何百万年にも渡る条件づけの結果なのですが― あらゆる刺激に瞬発的に反応する仕方を見て下さい。 絶えず活動的におしゃべりし、反応し続けているそれら脳細胞が静かであり得るかどうか 見て下さい。 心は、脳は、この心身統合のものの全体は、完全に静かであることができるでしょうか。 強いられてではなく、制御されてではなく、 「最高に素晴らしい体験をするため、私は静まらなくてはならない」と言ってではなく。 それを調べ尽くして下さい、見出して下さい。 様々な形態のプライド・自尊心の働くさまを刻々に観察すること。 それら内部の見難いうごめきのすべては、 気づきの光によって一点の影なきまでに暴かれなくてはならない。 瞑想とは、ありとあらゆる雑多な思考でいっぱいの心を空っぽにすることである。 と云うのも、思考と感情はエネルギーを浪費するからである。 それは反復的に生きてゆくためには必要な機械的な反応を生み出しはする。 しかし、決して生の広大な広がりのなかへ入ってゆくことはできない。 瞑想とは既知の事柄で満ち満ちた心を空っぽにすることである。 それら全ては、欲求や選択なく、気づきの炎のなかで焼き尽くされなければならない。 それを終熄させるためには、まさにその核心にまで入って行かなくてはならない。 あなた自身の極めて奥底まで、一カ所も残すことなく掘りつくさなければならない。 あなたは狡猾な思考のあらゆる欺瞞、ごまかし、 あらゆるものに対するあらゆる反応、あらゆる感情を、 余すところなく、選択することなく観察し尽くさなければならない。 全てはそこに開示され、明らかにされている。 私たちが心と呼んでいるこの空間が、 絶え間なくそこに生じてくる多くの思考によって、 如何に絶えずいっぱいになっているか分かるでしょう。 心が何かによっていっぱいで、その内容物に占められているかぎり、 一主婦の心であろうと最高の科学者の心であろうと、それは小さくつまらないものでしかなく、 何の問題も解決できないのです。 あなたが自身の注意散漫に気づく― まさにそのとき、その事実に注意深いならば、あなたは気づいています。 そこに注意散漫はありません。 始めなさい。 そして、注意深く存在するということが、 いかに並外れて異なったものであるか見出すのです。 質問者:ひとが夕焼けを見つめており、 それと同時に思考がそこに湧き起こってきたとき、 ひとはどうすべきなのでしょうか。 クリシュナムルティ:ひとはどうすべきなのでしょうか。 どうか、この質問の持つ意味を理解して下さい。 あなたは夕焼けを眺めています。 夕焼けがあり、その美、その驚異的な色彩があります、 それを知覚しています。 すると思考が湧き起こってきて、そして言います、 「さあ、私は何をすべきだろうか」 そう言っている、その「私」とは思考なのです。 思考は、その美を見ることに干渉して言います、 「私はどうすべきか」と。 することは何もありません。 あなたが何をしようと、あなたはそこに葛藤を持ち込むでしょう。 そう、あなたが夕焼けを見ているとき、そこに思考が忍び寄ってきたら― それに気づきなさい。 夕焼けと、そこに忍び寄る思考とに気づいていなさい。 思考を追い払ってはなりません。この全状態に無選択に気づくことです。 もし、あなたが思考を全く押さえ込もうとせず、 思考の干渉に対してもがくことなく実際に気づいていられるなら― それらに対してまったく何もしないなら― そのとき、思考が静まることを見出されるでしょう。 なぜなら、「私のやることは何か」などと言っているのは思考それ自体だからです。 それは思考のトリックの一つです。罠にはまってはいけません、 その起こっていることの全体を観察するのです。 そこには二つの問いが含まれています。 「すべての過去の傷跡・記憶を拭い去ることができるか」という問いと、 「これから先、新たな傷をつけられることなく生きていくことができるか」 という問いです。 それは、解釈したり、拭い去ろうとしたりすることなしにその傷自体を見つめ、 それを理解していくときにのみ可能です。 問題に完全な注意を払い、それを即座に解決するときにのみ、 決して、次の日、次の瞬間に持ち越さないときにのみ、 あなたは新鮮な心、天真爛漫な心を持って生きられるのです。 瞑想とは、心からその蓄積のすべてを洗い流すことである。 収集し、同一化し、何かになろうとする力からの浄化。 瞑想は心を記憶としての時間から解放することである。 思考とは過去であり、蓄積的な何かになろうとすることの継続である。 理解の明晰さをもたらすためには、 肉体的、感覚的、感情的、知性的なものといった様々なレベルでの 意識の理解、秩序がなければなりません。 意識は、一見、その各々のレベルにおいて分離しているように見えます。 しかし実際には、それぞれ他のレベルと連動してます。 思考と感情を、それらが起こるたびに感じつくし、考えつくすこと― それが意識のあらゆるレベルで起こらなければなりません。 その思考と感情の明晰化によって気づきは高められ、より鋭くされるのです。 そうなれば、あなたの注意が何か他のものに向けられているときでさえ 思考と感情のうごめきは自動的に記録され、 後になってあなたの注意が再び自由であるときに、それらは意識的な心に投影されます。 拡張的な明晰さ、理解によって、心は深い気づきのなかで静かになります。 この静かな気づきのなかに、動機をもたない感情、 何かの影響や何かの切望の産物ではない感情が生じます。 この動機のない感情は、喜び・エクスタシーです。 それが生じるとき、心は「この新しい充溢のなんと素晴らしいことか!」と、 それを楽しむべく内に取り込みます。 そして、それに執着し、明日の楽しみのためにそれを記憶に保存します。 このようにして、この測り知れない感情という生きた実在は失われ、 一方、心はその死んだ空虚な記憶に執着するのです。 そこで、もう一度、経験に執着し、それを習慣、停泊所、防衛手段にする この切望の明晰化・理解がなければなりません。 そしてこれは、切望を、広く、深くやり遂げることによって、 それゆえ、そのなかに測ることのできない実在の愛がある、あの静けさの、 尚より一層大きな気づきをもたらすことによって為されるのです。 「開放的でありたい」「受動的でありたい」、 まさにその欲求自体が問題を引き起こすに過ぎない自己の努力、 もう一つの障害であり得ます。 「受動的な気づきを獲得したい」というその欲望自体に、 私たちは気づいていることができるだけなのです。 開放的であるために積極的な努力をすることは自己閉鎖的な活動であり、 それにただ気づいていることがそれからの解放です。 気づいていないで、なおかつ開放的であろうとすることは、一層の問題を作り出すだけです。 不注意が注意になることはできません。 不注意に気づいていることが注意なのです。 頭脳の完全な静寂は驚くべきことだ。 それはとてつもなく鋭敏で、精力的で、とても生き生きとしており、 外界のあらゆる動きに完全に気づいていながら尚かつ完全に静止している。 いかなる隠された欲求や動機も持つことなく完全に開かれているとき、 本質的に矛盾の状態である葛藤・分裂がないとき、 それは静止している。 それは空のなかで完全に静止している。 この空は真空や空白の状態ではない。 それは中心や境界のないエネルギーである。 バスがけたたましく通り過ぎ、悪臭が鼻を突く、人込みで溢れた通りを下ってゆきながら、 頭脳は周囲の物事に完全に気づいており、 体は歩きながらも臭いや埃、汗臭い労働者たちに敏感に生き生きと反応していた。 しかし、そこに観察や指示や検閲が生じるような中心は存在しなかった。 その散歩の間中ずっと、頭脳は思考や感情のような運動とは無縁であった。 体は次第に疲れ始めていた。 太陽はしばらく前に沈んでいたが、 その苛酷な暑さと湿気に慣れていなかったのである。 以前にも幾度か起こったことだというのに、それはやはり不思議な現象であった。 それは習慣や欲望のできごとではない故、 これらのことに決して慣れ親しむことができない。 それは過ぎ去っていった後にいつも驚きを残してゆく。 どうか、あなた―あなた自身をじっと見て下さい。 あなたのなかのあらゆるものを使って。 何かにそんなにも完全に注意を注いで下さい。 そして何が起こるか見て下さい。 そのことは、私が思考のメカニズムを自分自身で理解するとき可能です。 ―どんな風に脳が働き、どんな風に自分の条件づけに捕えられるのか、 そしてどんな風にそれ自身を変えようと望むのかを。 私たちは、絶えず動いている生の運動、「私」という運動を取り扱っているのです。 その「私」を理解するためには、 強烈な好奇心、粘り強い気づき、蓄積することなき理解の感覚があることが必要です。 何かと共に生きることは途方もなく困難なことですね。 これら周囲の山々と共に、木々の美しさ、朝の光と共に生きることは、 とても骨が折れることです。 私たちは皆、それに慣れてしまうのではないでしょうか。 くる日もくる日もそれを眺めたすえ、 農夫がなってしまうようにそれに対して鈍感になり、 それを二度と本当に見ようとはしなくなるのではないでしょうか。 しかし、それと共に生きること― 毎日、新鮮さ、明晰さをもって、驚きを、愛をもって、 それと共に生きるには膨大なエネルギーを必要とします。 そして、醜いものが心を堕落させ蝕むことなしに醜いものと共に生きること― そのことも等しく膨大なエネルギーを必要とします。 しかし、このエネルギーは 絶え間のない葛藤の状態にあるとき否定され、破壊されるのです。 それゆえ心は葛藤の全体を見ることが、 それと共に生きることができるでしょうか。 それを受け入れたり否定したりすることなしに、 葛藤を作り出す私たち自身の欲望の運動のすべてを実際に見ていることが。 私はそれは可能だと思います。 私たちがそれを本当に深く調べるとき、 心がただ観察し、抵抗しないで、否定しないで、選択しないでいるとき、 それは可能です。 そのとき、葛藤の全体を実際に体験するなかで、 心が、もっともっと、ずっと強烈に、情熱的に、 活力に満ちて生きることができるというのを知るでしょう。 そして、そのような心が、あの測り知れないものが生じるためには絶対必要です。 葛藤のなかにいる心は真実であるものを見ることができません。 それは、神、実在、さとり、その他あらゆることについて 果てしなくおしゃべりするかもしれません。 しかし、名づけられ得ないもの・測り知ることのできないものに触れることができるのは、 葛藤の性質を完全に理解し、それゆえその外にいる心だけです。 瞑想とは、心をすっかり空にすることである。 心とは、非常に多くの経験、知識、記憶の巨大な貯蔵庫であるに過ぎない。 それはそれ自身から、過去の一切を完全に空にすることができるだろうか。 それが瞑想の運動である。 どんな選択もなしにそれ自身の運動すべてに気づいており、そのすべてを見ている心― その気づきは心から既知のもの一切を完全に空にすることができるだろうか。 過去のものの何らかの残滓があるかぎり、心は無垢たることができない。 それゆえ瞑想は、心をまったく空にすることである。 既知なるものからの自由とは、思考の刻々の終焉を意味する。 まさにこの刻々の死こそが精神を無垢たらしめるのである。 あなたは、あなたの全存在でもって怒りに気づきます。 そのとき怒りはあるでしょうか。 不注意さが怒りであり、注意深さは怒りではありません。 ですから、あなたの全存在による注意深さが全体を見ることであり、 不注意とは特定のものを見ることなのです。 全体に気づき、特定のものに気づき、そして両者の関係に気づく ―これが問題のすべてです。 私たちは、特定のことをそれ以外のことから切り放して解決しようとします。 そのために葛藤は増大し、出口がなくなるのです。 あなたは昨日の記憶の痕跡を持たずにその問題に直面しなければなりません。 と云うことは、挑戦が現れるたびに、昨日の残り滓・記憶の反応のすべてを 注意深く見つめていなければならないということです。 そうすることによって、それは何の努力もなしに自然に消滅し、 精神は新鮮になっていくのです。 自己とは思考によっては解消されない問題です。 そこに思考のものではない気づきが必要となります。 自己の活動の全体に非難や正当化なしに気づいていること ―ただ気づいていることで充分なのです。 あなたが自分自身を知れば知るほど、はっきり物事が見えるようになってきます。 自己認識には終わりというものがなく、 目的を達することも、結論に達することもありません。 それは果てしのない河のようなものです。 それを学び、そのなかに深く突き進むにつれて、 あなたは心の平安を見出して行きます。 自らに課した自己訓練によってではなく、 自己認識を通して精神が静寂になったとき、 そのときにのみ、その静寂と沈黙のなかから真の実在というべきものが誕生し得るのです。 また、そのときにのみ、無上の至福と創造的行為が生まれます。 このような理解も経験もなしに、 ただ本を読んだり講話を聞いたりするのは全く子供じみたことであり、 たいして意味のない行為だと私には思われます。 そして自己を知ることを本当に熱心に追求するなら、 それはあなたを驚くべき高みと深みに、並外れた喜び、試練に導くでしょう。 それをあなたは決して他には知らないでしょう。 私は恐れています。 しかし、その恐怖を解消する手段として、もう時間に頼ろうとはしていません。 私はそれに直面しなければなりません。 さて、どのように私は恐怖に直面するでしょうか。 あらゆる逃避への欲求―延期、分析、説明、制御―それらすべてが止んでしまいました。 それらすべては時間とエネルギーの浪費です。 さて、そのとき私は、どんな風に恐怖に直面しているでしょうか。 比較、正当化、非難等、 それらすべての過程の底に何が横たわっているかが理解され、発見されないかぎり、 いかにして精神がそれらに耽っているかに気づくだけでは不充分である。 瞑想が起こっているかどうかは、頭脳が完全に静かになっているかどうかで分かります。 思考のあらゆる動き― つまり、それがどのように条件づけられ、何を追い求め、 何を恐れ、何を楽しみにしているかということを、 たんねんに調べ、観察し、それらに耳を傾けるようになり、 頭脳がどのように働いているかを見守るようになると、 それが驚くほど静かになってゆくことに気づくでしょう。 ものごとが入ってくるのは不注意であるときだけです。 この不注意が問題を引き起こし、 そして問題の解決が不注意のなかでなおも追求されるのです。 問題を持っていて、答えを見出そうとすることなしに、 全的に完全に問題に耳を傾けるなら― それから逃げ出そうとするのでなく、それと共に全的に生きてみるなら― そのとき問題がまったく存在していないということを知るでしょう。 問題は注意がないときのみに生じるのです。 気づきと問題は共存できません。 |